俺の大切な人の声がする。
「姫。」
ここは橿原宮。
忙しく走り回るあなたに、付き従う毎日。
それでも、もう一度傍にいられることが幸せだった。
時折掠める不安もあなたが俺の名前を呼ぶ度、どこかに消えてしまうんだ。
「あれ?風早?今声がしたと思ったんだけど…。」
この角の先、姫の足音が止まった。
「姫、俺はここにいますよ。」
もう一度声をかけると、
「もしかしてこの先にいる?」
自問自答したような呟きがして、姫の足音が聞こえた。
すぐに、姫の姿が現れた。
俺の顔を見た途端、姫は笑顔になる。
「風早!ここにいたのね!」
「はい、もしかしてずいぶん探しましたか?」
「ううん、大丈夫。」
「ところで何か急ぎの用ですか、ずいぶんと慌てて…。」
「え?あ、違うの。用があったとかそういうわけじゃなくて。」
すっ…俺の手を取る。
「なんだか急にこの後お休みになったの。だから、風早と一緒にいたくて。」
愛らしい笑顔がまぶしいくらいだ。
「ダメだったかしら。」
「大丈夫ですよ。どこかに行きますか?姫が行きたいところにいきましょうか。」
「風早が一緒ならそれでいいわ。それより風早、今はお仕事中ではないんだもの、姫じゃないわ。」
少し拗ねたようにされては敵わない。
「千尋。」
愛しい人の名前を呼ぶ。
そして、その愛しい人が俺の名を呼ぶ。
「風早、風早はどこか行きたいところはない?」
「そうですねぇ…この季節は花も沢山咲いてるでしょうから、宮の周りを少し散歩してみますか。
きっと、千尋に似合う花が咲いてますよ。あぁでも、疲れたらすぐに言ってくださいね。」
「風早はすぐに私を子ども扱いするのね。」
「そんなつもりはありませんよ。ただ俺が甘やかしたいだけです。さ、行きましょうか。」
手から感じる千尋の温もりが、幸せだと教えてくれた。
すぐ近くで大切な人が、俺の名を呼び、笑ってくれる。
それだけで俺は幸せを感じられる。
いつの日か、もうあなたと並んで歩くことも、言葉を交わすこともないのではないかと思った。
それでも俺は、あなたのすぐ隣にいる。
「風早。」
「はい?」
「なんでもないわ。」
千尋。
俺はこうして、あなたに従い、あなたの傍にいられるだけで、十分幸せなのです。
「そういえば。」
「なんでしょう。」
「風早はさっき何をしていたの?」
「あぁなんでもありません。」
すぐ近くにある幸せをかみ締めていた――
「あそこにいると千尋の声が一番聞こえるんです。」