蝦夷が真冬の雪に覆われ、戦が始まる前の穏やかな空気が流れていた頃。
土方は大鳥と、箱舘市中に視察に出ていた。
五稜郭への帰り道、ふと、土方の目に止まるものがあった。
足が止まるのは、とある呉服屋の前。
白地に朱に近い淡い色を纏い、愛らしい花弁が舞う、春の花のような女性物の反物だった。
「土方君?」
さっきまで隣で肩を並べて歩いていた土方が、足を止めているのに気付き、大鳥はどうしたのかと尋ねた。
「なんでもねえ。」
そうは言うが、土方の目は反物を見たまま。
大鳥は土方の隣に並び、その視線を追う。そして、もう一度土方の顔を見る。
鬼と呼ばれている彼からはなかなか見れない表情が浮かんでいのだ。
ああと合点が言ったように大鳥が笑った。
「もしかして、雪村君に似合うと思った?」
「……。」
沈黙は肯定の色合いを濃く出していた。
僅かに居心地が悪そうにする様は、とても部下に見せられるものじゃないけど、
一人の愛する女性に向けられた愛情を感じさせる。
土方は、自分の視線に注がれた大鳥の視線に、うるさそうに顔を顰めると
「なんだ?俺の顔になんかついてるか?」
と口調を強める。
「いやあやっぱり君も一人の男だよね。」
楽しそうに笑う大鳥に、盛大なため息で土方は答えた。
名残惜しそうに反物を見た後、五稜郭へと続く道へ戻ろうとした。
それを見た大鳥は、こう告げた。
「僕、ここの呉服屋さんと馴染みなんだよね。」
土方が足を止めた。
「どういう意味だ?」
大鳥が何を言いたいのかわからず、怪訝そうにしている。
「きっと土方君の願いを叶えられると思うんだ。」
それから1年余りが過ぎようとしている。
戦争が終わり、土方は男装を解いた千鶴と、ひっそりと、でも、幸せな日々を暮らしている。
今は、遅い蝦夷の春がやってきた頃。桜の膨らんだ蕾が一つ、二つと咲き綻び出した。
うららかな陽射しを浴びるそんなとある日、ふと、土方が口にした。
「千鶴、函館に出かけないか?」
「函館…ですか?」
千鶴が驚いたように聞き返した。
土方は、先の函館戦争で命に関わる重症を負った。
その際、大鳥らの配慮で死んだこととなり、そのこともあって、あまり土方は函館に出ようとしない。
「大丈夫ですか?」
「そんな長居はしねえよ。」
「でも…。」
「俺を誰だと思ってやがる。そんなヘマしねえよ。ま、たまにはいいだろ?」
どこか楽しそうに笑った。
「はい。」
そんな土方に、千鶴も笑顔でうなずいた。
函館に出ると、土方は目的の場所があるように歩き続ける。
「あの、土方さん?」
手を引かれる千鶴が不思議そうに問いかけた時、土方の足が止まった。
「呉服屋さん…?」
それも、いつの日か、大鳥と足を止めた呉服屋である。
土方はニヤリと口角を上げると、
「入るぞ。」
と短く言い、わけがわからず戸惑っている千鶴を引っ張るようにして、土方は中に入っていった。
店主は土方の姿を見つけると懐かしそうに目を細めた。
「あなたは…!」
「ご無沙汰しています。」
「いいえ、ご無事で何よりです。」
店主が千鶴の姿を見つけると、土方の来店の意図がわかったようだ。
「もしかして、あの時のお着物を取りにいらしたんですか?」
「ああ、お願いします。」
千鶴は短いそのやり取りの意味するところがわからずにいた。
店主が去った後、隣に立つ土方を伺い見てみると、
やっぱり土方は楽しそうで嬉しそうに見える笑顔をたたえていた。
「土方さん、なんか楽しそうというか嬉しそうですね。」
「まあな。」
破顔するように笑われて、千鶴をドキドキした。
うっすら頬が赤くなっている。
「ん?どうした?」
「いえ…。」
すっ…と目を逸らすと、
「やっとおまえに渡すことが出来ると思ってよ、嬉しくて仕方ないんだ。」
そう千鶴の頭を軽く撫でた。
「渡す…?」
「ま、もう少ししてりゃわかるさ。」
土方の言葉通り、少しすると店主がやってきた。
その手には真新しい行李があった。
「こうしてお渡しが出来てとても嬉しく思います。」
「俺の方こそ。ありがとうございました。」
「どうなさいますか?ご試着して行かれます?」
「そうさせてもらいます。」
店主から行李を受け取ると、千鶴を顧り見た。
「千鶴。」
まだよくわかっていない千鶴を傍に呼んだ。
「奥の部屋、使わせてもらってもいいですか。」
「どうぞ、お使いください。」
土方はその手を取り、店主に促された奥の部屋へと千鶴を誘った。
「土方さん?!」
「これ。」
行李を差し出した。
「え?」
「お前のだ。試着して来い。」
「えぇぇ?!」
「いいから着て来い。」
かつてを彷彿させるような有無を言わさない態度に、千鶴も折れるしかなかった。
それに、土方はとうに部屋の障子を閉めて待っている。
千鶴は、土方から渡された行李をそっと開けてみた。
そこにあるのは、白地に朱に近い色を纏い、愛らしい花弁が舞う春の花のような着物だった。
一緒に、淡い黄色の帯も添えられていた。
「綺麗…。」
滑るように零れた言葉。
千鶴の顔に笑みが広がった。
「土方さん、出来ました。」
千鶴はおずおずと声をかけた。
着物に袖を通したのはいいものの、あまりにも綺麗過ぎる着物に少し気恥ずかしさを感じていた。
土方は、
「入るぞ。」
短く声をかけて、障子を開けたが、
「……。」
そのままの形で立ち止まる。
土方の想像以上に着飾った千鶴がいたのだ。
「あの、歳三さん…?変…ですか?」
いつも控えめなこの娘らしく、まだ男装し土方を怖がっていた昔と同じ質問をした。
千鶴の声に我に返って、開けたままだった障子を閉め、恥ずかしそうにしている千鶴の傍へと歩み寄った。
「まさか。その逆だよ。見立て通り…いや、それ以上で驚いた。」
「それって…。」
「ああ、よく似合ってるよ、千鶴。」
囁くように、愛おしむように、告げられた言葉に、さっと頬だけでなく耳まで赤くする。
土方の目も同じくらいの愛おしさと、そして、なんとも言えない嬉しさで染まっていて、
千鶴はつい視線を逸らしてしまう。
「あの、これ…。」
「まだ戦いが始まる前、大鳥さんと市中を見に行った時にな、たまたまこの呉服屋の前を通ったんだ。
その時、この反物が目に入ったんだが、一目見ておまえに似合いそうだと思ってよ。
でも、まだあの頃のおまえには女物の着物渡すわけにもいかなかっただろ?そしたら大鳥さんがな…」
「きっと君の願いを叶えられると思うんだ。」
大鳥は、そうにっこり笑った後、こう続けた。
「君が今この反物を買わない理由と、
なのにその反物から離れられない理由、僕はわかってる筈だよ。」
土方は、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「君は、この反物をどうしたい?今の状況云々勿論なしでね。」
「…そりゃあいつに贈ってやりたいさ。」
ぶっきらぼうに、それでも確かに素直な言葉で答えた。
「いつかは男装ではなく女物の着てほしいさ。その時に着てくれたらと思う。
これ着た千鶴を見たいとも思う。
でも、今仕立てたところでどうすんだ。先の見えない戦が始まるんだってのに。」
「じゃあこういうのはどうだい?ちゃんと仕立て代すら払ってくれるんなら、ここの店主に話をしてあげる。
そして、君がこの戦に生き残って、雪村君と幸せに暮らせる時が着たら、
ここへ来て、今のその気持ちと共に雪村君に贈ってあげればいい。」
大鳥は、やっぱりその土方の視線の先にある反物を指差した。
「大鳥さん、あんた…」
「僕も雪村君と同じさ。君に生きてほしいのさ。」
大鳥はいつもの人のいい笑顔を浮かべたあと、行こうかと土方を促し、呉服屋の中へと歩き出した。
「ったくあんたって本当に世話焼きだよな」
土方は、そう軽口叩いた後、数歩先を行く大鳥に
「ありがとな。」
と、素直に礼を述べたのだった。
そして、千鶴に合いそうだという反物を買い求め、
それと合うような帯もそろえて仕立てをお願いしたのだった。
土方は、少し目の下に朱を挿し、どこか照れくさそうにその時の話を千鶴にした。
千鶴の目にはうっすらと涙が浮かんでるようにも見えた。
「大鳥さんには感謝してる。おかげで俺の願いは叶った。
おまえに着てほしい、おまえがこの着物を見てみたい。おまえに似合うと俺が一目で思ったんだ。
それをどうしてもおまえに贈りたかった。」
「土方さん…」
「せっかく綺麗に着てんだ。泣くな。」
今にも零れそうな涙を、土方はそっと拭った。
「でも、土方さんの気持ちが嬉しくて…。」
「そうか。俺はそんなおまえの反応が見れて嬉しいよ。
これからは俺のすぐ傍でその着物を見せてくれ。」
「はい…!」
涙を溜めたまま、満面の笑みを浮かべた千鶴の姿に、思わず土方は見とれてしまった。
「本当に綺麗になったよおまえは…」
「えっ」
その言葉に千鶴は赤みが引き始めていた頬を染めた。
「その着物着て帰るか?」
「でも…。」
「もったいないと抜かすのか?」
「う…。」
「さっきの話聞いてたか?おまえはその着物を着たおまえが見たい。
ま、千鶴がイヤだって言うんなら話は別だけどな。」
今度はニヤリと笑った。
千鶴がなんと答えるか承知の上での言葉だ。
「い、イヤじゃないです!着て帰りたいです。」
「だったら着て帰ればいいだろう。」
「はい!あの…土方さん、ありがとうございました。」
「礼を言うのは俺の方だ。」
土方の見立てた着物を着ている千鶴に、土方は愛おしそうに目を細めた。
それから、土方と千鶴は店主に丁寧に礼をし、呉服屋を後にした。
今だ恥ずかしそうに頬を染める千鶴と嬉しそうな土方は、
そっと寄り添い家までの帰路を歩いていくのだった。
それからというもの、この着物は千鶴のお気に入りとして、
どんな着物よりも一番多く着られたのはいうまでもない。