盛大なため息を一つ零したのは、この学園の古典教師・土方だ。
職員室を後にし、すっかり自分の部屋となっている教科準備室へと向かう。
教頭も兼ねている土方は、校長並に…もしかすると校長以上かもしれない仕事を抱えている。
それに、何かと人の出入りが激しい職員室は落ち着いて仕事が出来るわけもなく、
自然と教科準備室を使うようになり、いつしか土方の部屋となっていた。
今日はバレンタインだ。
土方は職員室を出る時、旧知の仲である新八と原田とそんな会話をしたばかりだ。
知らぬ間に置いてあったチョコの山にげんなりして、
そのまま、女子が増えた今年はと思って見事に撃沈した新八に全部渡してきたのだ。
土方がほしいのはただ一人の女だけだった。
そうこうしているうちに、教科準備室に戻ってきていた。
ドアノブに手をかければ、抵抗なくドアが回る。
中にいる人物の想像がついて、ニヤリと土方の口の端が上がった。
職員会議前には鍵をかけていった。
教科準備室の鍵を持つのは、土方ともう一人だけ――…
「千鶴?」
中に入り、呼び掛けた声に返事はなかった。
不思議に思っていると、仕事机に人影を見付けて、土方が愛おしそうに笑った。
規則正しく上下する人影は、土方がこれと決めた女――千鶴だった。
「ちょいと待たせすぎたか。」
コツコツと近づいて、顔にかかる髪を払うように頬に手を触れた時
「ん?」
千鶴が大事そうに小箱を抱えていることに気が付いた。
市販のものではないラッピングは、手作りであることを伺わせる。
土方の顔にふっ…と笑みが零れた。
「千鶴、起きろ。」
土方がそっと肩をゆすってやるとほどなく千鶴が目を覚ました。
「ん…。」
目を瞬いてゆっくり開いたその瞳に土方が映り込む。
自分が思ってた以上に土方との距離が近かったのだろう、
状況を把握できた途端顔を一瞬にして朱に染めた。
相変わらず、初々しいその反応に土方は愛らしいと思うだけだ。
「ひっ土方先生…!」
「よう。起きたか。」
土方は笑いを喉の奥に押し殺して、そのまま覗き込むように千鶴を見やる。
「待たせたな。」
「いっいえ!」
声が少し上擦っているの、気恥ずかしさからだろう。
全く慣れないヤツだ。
「そうか。」
千鶴は恥ずかしさからか、視線をそらそうとする。
が、すぐに土方が顎を捕まえてそれを阻止する。
「どうした?」
「なんでもありません!」
どう見てもなんでもないって顔じゃねえが。
土方の視線がすぅっと小箱に移る。
それは、まだ大事そうに千鶴の手の中にある。
千鶴のことだから恐らくはどう渡そうか考えてるんだろうが、
この状況もあって混乱してるのかもしれない。
あいつらにはさらっと渡していたくせにと土方は昼間の光景を思い出す。
それが土方相手だと素直に出来ないのが千鶴だ。
全てわかっていながら嫉妬しちまうから情けない、
どうもコイツ相手だとダメなようだ、と土方は心の中だけで思う。
そして、朱に染まったまま何もできずにいる千鶴の顔を上げさせ、
何事かと視線が土方に向いた瞬間に口付けた。
千鶴の体が小さく驚いたかと思えば突然の固まっているようだ。
「…んっ…。」
土方が口付けを深めてやると、小さく声が漏れ、体が弛緩した。
ややあって口唇を離すと、恨めしげに睨む千鶴の瞳があった。
にわかに潤んだ瞳で睨まれても土方にはさして効果がなかった。
ただ愛しいと思うだけ。
「土方先生!いきなりなにするんですか!」
千鶴の耳まで真っ赤だ。
「おまえがなかなかくれないから悪い。」
土方の人差し指が千鶴が持つ小箱を指差す。
「え?」
きょとんとした千鶴は、土方の指す先を追い、漸く理解したようだ。
「それ、俺のだろ?」
土方が悪戯に笑って言えば、千鶴はあのだのそのだの言いながら慌てている。
そんな様子にからかい過ぎたかとも思うが、
可愛いとしか思えない千鶴の様子は、土方だけが見れる特権だった。
「違ったのか?」
土方が更に聞けば小さく首を振った。
「あいつらにはさらっと渡してたくせに。」
「それは……っ!」
そこまで言うと、千鶴は何故か口を閉ざしてしまう。
「なんだ?言えないことなのか?」
「……………好きな人に渡すのは、
その……とても緊張するんです…仕方ないじゃないですか。」
小さな声で訴えた後、小箱を土方に差し出した。
「っ!」
土方は、それを受け取るや否や、千鶴を抱き寄せていた。
最愛の人の可愛い告白。思うより早く、土方の体は動いていた。
千鶴を抱き寄せたまま、ラッピングを解いていく。
箱の中には小さなトリュフが3つ。
自然とほころぶ土方の表情に、千鶴は内心胸を撫で下ろしながら、
それでも、どこか強張った表情で見ている。
それを横顔で受け止めながら、土方はトリュフを掴み口に運んだ。
「上手に出来てるじゃねえか。」
「本当ですか?」
「ああ、うまい。」
「よかった…!」
土方の言葉に千鶴がほっとして満面の笑みが浮かぶ。
「そんな笑顔見せられちゃたまらねえな。」
言い終えるが早く、何かを言いかけた千鶴の唇を己の唇で塞いだ。
突然のことに驚いを見せた千鶴だが、すぐにそれに応え、土方の背中に腕を回した。
仄かに、チョコレートの香りが漂い、移り香のように千鶴の口腔内に侵入する。
甘いものが得意でない土方に合わせて作った、ビターの味。
それでも、唇を離した土方はこう言うのだった。
「やっぱりこっちの方が甘いな。この甘さなら悪くねえな。」