4月になったばかりのころ。
まだ学校は春休みの時期。
教師と言う仕事は当然春休みなるものはなく、
ましてや古文教師と兼任し教頭を任されている土方は、
今日も例外なく山のような仕事をするため教科準備室にこもっていた。

はぁという重いため息がついこぼれてしまう。
それもその筈、秘密の関係とはいえ千鶴とゆっくり過ごす時間もろくにとれていない。
新年度が始まるこの時期は特に忙しいのだ。
途切れた集中力はおいそれと簡単には戻らない。

何気なく視線を校庭へと向ければ、今が盛りと咲き誇る満開の桜が目に入った。
そのまま桜並木に視線が止まる。
自然と土方の表情も和らいだものになる。
頬杖をつき、和らいだ表情のまま桜に見とれている土方の姿はとても絵になるものだった。

「あいつにも見せてやりてえな。」

土方の口からぽろりとこぼれた。
この桜は始業式の頃には、散り始めて葉桜となっているだろう。
確か桜は、満開から数日で散り始める気がした、と時折風に揺れる桜に思った。
千鶴が見たらきっと喜ぶだろう、千鶴の笑顔を思い浮かべて、土方の顔に微笑が浮かぶ。

春休みに登校してくる生徒は殆どいない。
千鶴に逢いてえなと心の中でひとりごちて、
仕事に戻ろうかとした時、土方はふと、人の気配を感じた。
本人は消してるつもりだろうが、その消しきれてない気配。
それは土方が間違うことないもので、
この教科準備室にはもうすっかり馴染んでしまった千鶴のものだった。
背中だけで確認すると、土方の口の端が上がった。

千鶴はというと、教科準備室の入り口に立ちすくんでした。
――いや、正確に言えば、土方の姿に見惚れていたのだ。
なんとなく声が掛けられず、ただ惹かれるように土方の姿から目が離せずにいたのだ。

声を掛けたのは土方が先だった。

「おい、いつまでそうしてる気だ?」

少し揶揄するような土方の声に、千鶴は漸く我に返った。
土方は最初から気付いてたようだとわかった時、自分の顔が熱を持つのがわかった。

「そんなとこに突っ立ってないで、いい加減入って来い。」

入り口であたふたとしている千鶴へと向き、土方は手招きした。
楽しそうに笑う土方に、ますます千鶴は恥ずかしさが先に立つ。
耳まで赤く染めながら、
それでも優しい目をして千鶴を待つ土方の隣へとそろそろと歩みを寄せた。

「で?なんですぐに入ってこなかったんだ?」

ニヤリと笑った土方に、全てお見通しだと悟った千鶴は、これでもかと赤く染まる。

「あ、あの、それは…。」

土方の姿に見惚れていた、と言うには
照れくささと恥ずかしさとでなかなか口には出来ず、一度は開いた口を閉じさせた。
そんな千鶴の姿に、土方の笑みが深くなる。

「そんなに俺に見惚れていたのか?」

土方の言葉に弾かれたように俯き加減だった顔を上げた千鶴は、
土方と目が合うなり背けようとしたのだが、それはかなわなかった。
何故なら、千鶴の頤をしっかり土方の手により捕まえられたからである。

「どうなんだ?」

わかってて聞く土方に抗議の意味で睨んだ千鶴だが、
真っ赤な顔で睨んでもさして効果はなく、
土方に愛しいという感情を抱かせるだけである。

「わかってるのに聞かないで下さい…。」

消え入りそうな声で、やんわりと千鶴は肯定する。
その答えに満足した土方は、
そっと触れるだけのキスをして唇とともに頤から手を離す。
千鶴は予想外だった土方の行動に、一瞬体を強張らせたが、すぐに力を抜いた。
初めてではないにしろ、
まだまだ初々しい千鶴の反応に土方はただ可愛いと思うだけだった。

「おまえ春休み中だろ?どうした?」
「土方先生、ここのところずっとお仕事じゃないですか。」

土方の問いに、千鶴はやや頬を膨らませて答えた。
千鶴の表情におや?と思い当たった土方は、笑みを抑えるのに必死だった。
きっとここで表に出してしまえば、千鶴が拗ねてしまいそうに思えたのだ。

「なんだ寂しかったのか?」
「はい…。」

珍しく素直に答えた千鶴は、
それまで大事そうに手にしていたものを土方に手渡した。

「それに、ちゃんと食べてないんじゃないかと思って、
先生に逢いたかったのでお弁当を作ってきました。」

土方は差し出されたお弁当を受け取ると、嬉しそうな表情をして

「ありがとな。」

それは優しい声音で感謝の言葉を送った。
そして、そのお弁当が一人分にしては重いことに気が付いた。

「千鶴、俺一人分にしてはなんだか重くねえか?」

思ったままを口にすると、
千鶴は引き始めていた赤みをまた元のように濃くして、言いにくそうに答えた。

「それは…その…出来れば先生と一緒に食べたくて…。」

千鶴の可愛い告白に、土方はその綺麗な顔に柔らかくな笑顔を浮かべた。

「じゃあ食うか。」
「はいつ。」

顔を赤いままに、満開の桜よろしく花のような笑顔で千鶴が頷いた。
そうだ、と土方は千鶴からほんのわずか視線を外に移し、また千鶴を見て笑った。

「ちょうどいい、千鶴、花見だ。」

土方の言葉の意味がよくわからず、千鶴は不思議そうに首を傾げて聞き返した。

「花見、ですか?」
「おまえに見せたいと思ってたんだ。」

土方は千鶴の肩を自分の方へ抱き寄せ、ほら、と校庭の桜並木を指し示す。
先ほど、土方が見ていた満開の桜並木。
千鶴の顔がみるみるうちに綻んでいく。

「綺麗…!」

千鶴が来るまでに思い浮かべていた笑顔そのままの千鶴の姿に、
眩しいものを見るかのように愛おしく目を細める。

「おまえが喜ぶだろうなって思ってたんだよ。」
「ありがとうございます!」
ぱっと振り向いた千鶴が、思ったより近い土方の顔に
この日何度目かしれない顔を赤く染めたところで、土方が小さく笑った。

「本当はあの桜の下で出来たらよかったんだけどな。」
「そんな!ここからでも十分綺麗に桜が見れますから。
ここの方が、先生とゆっくり出来ますし…。」

段々と小さくなる千鶴の言葉に、一瞬目を見開き、微笑んだ。

「だな。せっかく久々に千鶴と過ごせるんだ。誰かに邪魔されちゃたまらねえしな。」

はにかみながら千鶴は土方の言葉に頷いた。
よし、食うかと土方は意気揚々と千鶴が持ってきたお弁当広げる。
色とりどりのおかずが並んだお弁当だ。

そこにさっきまでの重々しく、ピリピリとした雰囲気はなく、
ただ桜に注ぐ春の陽のような雰囲気が漂っている。
千鶴のお弁当を食べながら、
二人肩を寄せ合うようにして教科準備室の窓から満開の桜を見ていた。