蝦夷の地に遅れてやってきた短い春が終わりを告げ、初夏の訪れを感じる暖かなその日、
土方と千鶴が暮らす人里離れたその家にも、明るい陽射しが降り注いでいた。
千鶴はまさに洗濯日和なそんな天気に、機嫌よさそうに洗濯物を干していた。
昼餉を済ませ、一息つく時間。
穏やかでまだ柔らかさのある初夏の光は心地いい。

千鶴が最後の一枚の洗濯物を手にした時、背を向けている縁側から、不意に小さな物音がした。
二人で慎ましく暮らすにはちょうどいい広さだ。さして大きくはない。
それに、今ここにいて物音を立てるのは、千鶴を除けばただ一人だけ。
だからか、千鶴の脳裏に浮かんだのは、土方の寿命が尽きたのではないかという恐怖。
その表情から色が消え、不安げに曇り、慌てて後ろを振り向いた。

「よかった……。」

振り向いた千鶴は、安堵のため息をつく。
表情も安心したように輝きを戻した。

そこには縁側で妻の姿を見守りながら書物を読んでいた土方がいた。
生きているその証拠に、綺麗に切り揃えられた千鶴のそれとよく似た漆黒の髪が、
一つ息をして小さく揺れる体に合わせて揺れている。
先程の物音の正体は、どうやら、弛緩した土方の手から床に落ちた物音のようだ。
それまではしっかり土方の手に握られていた筈なのに、
土方の胡座を書く膝のすぐ隣の床に、無造作に広がって存在している。

千鶴は手にしていた最後の一枚を急いで干すと、
洗濯物が入っていた桶はそのままに駆け足で縁側へと戻る。
土方の隣に座ると、その規則正しい寝息がはっきりしたものとして千鶴の耳に届いた。

「ふふ。」

幾つの季節を一緒に過ごしただろうか。
決して長いとは言えず、けれど短く感じるわけでもない季節をこうして寄り添って過ごしてきたのだ。
土方と二人住み始めて、土方はこれまで見せたことのないような表情を見せるようになった。

土方の寝息と共に、その体が小さく揺れる。
千鶴は一回り以上も大きいその頼もしい体にそっと自らの手を添えると、
自身も後ろの柱へ身を預けて、土方の体をそっと横たえる。
そして、土方の頭を自分の膝の上に乗せると、指通りのいい土方の髪に指を絡ませ梳いていく。
戦や仕事に忙殺されていた頃の、眉間に皺を寄せた険しい顔でも、鬼のような厳しい顔でもなく、
戦が終わった今は、ただ一人の最愛の妻の横で安心しきって眠る、綺麗な、
ともすればあどけないとも見える穏やか過ぎる寝顔は、常々土方に綺麗だと言わせる千鶴の笑顔を誘った。



ふと目を覚ました土方は、自分が意識を飛ばす前と見える景色が違うことに気が付いた。
手に持っていた筈の書物もなく、くすぐったく触れるようで触れない、自分のものではない黒髪。
伝わる規則正しい息遣いと、もう幾度となく体を重ねたてきたから間違うはずもない、
土方だけが知る温もりと柔らかさ。 視線だけで追えば、千鶴が眠っていた。

「なんだ今度はおまえが寝ちまったのか。」

嘆息する土方の声には、優しい響きが含まれていた。
千鶴は、土方を自分の膝の上に乗せて、しばらくその寝顔を眺めていたが、
やがてその寝顔に誘われたのか、眠りに落ちていた。
土方の頭にはそっと添えられる程度に千鶴の手が置かれていた。
その手を流れるような優しい手つきで取ると、
今度は仰向けに体制を変えて、千鶴の寝顔を真下から覗き込む形になる。

「ったく相変わらず無防備な寝顔で寝てるもんだ。」

眩しいものを見るかなのように、土方は愛しそうに目を細めて千鶴を見上げた。
もうそれなりに妙齢の女のはずなのに、千鶴の寝顔にはまだ幼さも垣間見える。
片方の手は千鶴の手を掴んだまま、もう片方の手を伸ばし、千鶴の頬に沿わす。
土方の手だけでその頬が隠れてしまうようだ。

その寝顔を真っ直ぐに見る土方の目には、なんとも言えない感情が浮かんでいた。
いつだってひたむきに真っ直ぐに、弱さと強かさを併せ持ち、
時に土方ですら敵わないと思うような強情さと凛としたものをぶつけてくる。
土方の言動や行動に赤くなり、慌てたり、恥ずかしがったり、
飽きもせずころころと変わる千鶴の表情を土方は見続けてきた。
自分がこうして千鶴の隣で幸せだと笑う日が来るとは、その戦の最中誰が考えただろう。

「綺麗になったな、千鶴。」

土方がそっと低く囁くように呟いた時だった。
千鶴が起きたようで、その瞼が開く。

「おはよう。」

土方が柔らかく微笑んで、下から言葉をかける。
しかし、千鶴はすぐには焦点が合わなかったようで、一つ二つ目を瞬かせたかと思えば、
土方の瞳とまともにかち合うとみるみるうちに見開かれた。
と同時に、あっという間に千鶴の顔に朱色が広がっていく。

「…っ!あのっ…!」

言葉を詰まらせ、何も言えずにいる千鶴に、土方は笑いを堪えずにはいられない。
真っ直ぐに向けられる土方の視線から逃げようと目を逸らすが、
土方の手が頬にしっかり触れられている為か、それが敵わない。

「おまえ自分俺をここに寝かせたんだろうが。今更何を驚いているんだ。」

恐らく、千鶴は、自分がいつの間にか寝てしまったこと、
横向きに寝ていた筈の土方が仰向けになって真正面から自分を見ていたこと、が
千鶴をそうさせる原因だろうと、土方は思っていた。

「だってまさか土方さんがそんな風に見られてるとは思いませんでしたし……寝てしまいましたし…。」

と、土方の思い描いた通りの答えが返ってくる。

「仕方ねえだろう。こんなにすぐ近くに惚れた女の綺麗な寝顔があるんだ。そりゃ見ちまうさ。」

更に千鶴の頬の色が濃くなる。
もしかすると耳までそんな濃い朱色に染まっているのかもしれない。

「おまえだって俺の寝顔見てたんだろう?」
「……ぃ。」

殆ど聞こえなかった千鶴の声だが、土方にはなんと言ったのかわかっているようだ。

「じゃあこれでおあいこだな。」
「負けた気しかしません。」

朱色の頬を膨らませ、拗ねたような千鶴の声。
千鶴としては、土方にうまいようにからかわれた気がして仕方がない。
勝てるわけがないとは思うのだが、毎回のように、
いや、毎日のように翻弄されれては面白くなかった。

「そうか?じゃあ千鶴、これで許せ。」

そう言った土方の手は、千鶴の頬から後頭部へと移動している。
千鶴がえ?と思ったのも束の間、土方はそのまま千鶴を引き寄せ、己の唇と重ねさせる。
触れた温もりをしっかりと感じるだけの時間を過ぎ、ゆっくりと離れていく。

「やっぱり歳三さんには勝てそうもないです。」
「俺はおまえにかなわねえけどな。」

そう言って口の端をあげて楽しそうに笑う土方は

「なんだ、もしかして足りなかったか?」

更にニヤリとその笑みと深める。
勿論、二人で暮らすようになってから多くみるようになった
その笑顔の意味を千鶴が知らないわけがない。

「え?あ、いえ、そういうわけでは――…」

最後まで言わせては貰えず、土方の唇によって遮られる。
千鶴も本当に拒否していたわけではなく、ただ恥ずかしいだったり照れくさいだったり、
そういった感情が千鶴をそう動かしていた。
その証拠に、触れる刹那、微かに震わせて静かに目を閉じて受け入れる。
啄ばむように触れるように、繰り返していると、くすくすと千鶴の小さな笑い声が聞こえてきた。

「どうした?」
「くすぐったいです。」
「なんだそれ。」

ほんの少し驚いたようにした土方だったが、すぐにその笑みを柔和なものへと変えた。
それから体を起こすと、今度はいつものようにその腕の中にすっぽりと包むように抱きしめた。

「やっぱこっちの方が落ち着くな。」

ポロリと零れた土方の本音に千鶴は、もう一度くすくすを笑う。
バツが悪そうに目元を染めたように見えた土方は、
こちらを見ようとする千鶴を腕の力を強くすることで制した。

「ああでも千鶴。」
「なんでしょう?」
「たまには悪くねえな。」

ああいうのも、そう言う土方の声はどこか嬉しそうで。

「たまには、ですからね。」

念を押すように言葉を繰り返した、千鶴の言葉もどこか嬉しそうで。

重ねた季節が多ければ多いほど、別れの時が近いのを感じてしまうことも増えてくる。
それでも、まだこれから新たな季節が続く。
重ねる季節の分幸せを積み重ねていけたら、とそう願わずにはいられなかった。
自分だけしか知らない表情を、互いがいるからこそ引き出されているその表情を見ていられるように。
この戯れのようなささやかな時間が、幸せなんだと二人は知らず知らず気付いていた。

だから、一つ、キラリと光った雫が千鶴の瞳から零れ落ちる。

「すいません。」

思わず謝った千鶴の目の端に浮かぶ涙を、土方はそっと拭ってやると、柔らかく微笑った。

「謝る必要はねえよ。言ったろ?おまえの涙を拭うのも俺の仕事だと。
 だったら俺の数少ない仕事を奪うんじゃねえ。」

土方の言葉に、千鶴は嬉しそうにふわりと笑う。
その拍子に、溜まっていた涙が千鶴の頬を伝う。
それを口付けることで拭い

「千鶴。」

甘く囁かれた言葉に、千鶴の視線が土方のものと重なって、
自然と近付き惹かれるように、それまでより深い接吻を交わす。
そうしてただ、今は、まるで幸せという色を表したような陽の光に包まれて、
悲しみや不安のない甘い幸せを抱きしめていた。



――どうかこんな日々がこれからも長く続きますように――





お題「音楽用語のお題」03. dolce (ドルチェ)/甘く柔らかに(伊)
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