「おや、土方君。君がここに来るとは何事ですか?」
柔和な声がする。
棘を含んだような。
保健教諭兼経理担当の山南だ。
「ついに禁煙のご相談ですか?」
「なわけねえだろ。」
土方は機嫌が悪そうに即座に否定し、きょろきょろと保健室内を見回す。
「千鶴が保健室に連れてこられたって聞いてな。」
どこか言いにくそうにしながら、土方は山南に告げた。
ああ、と山南は合点がいったようでにこやかな笑みを深める。
「全く、土方君が保健室に来たということだけでも珍しいと言うのに。」
楽しそうに揶揄する山南に、土方の顔が苦く歪む。
しかし、すぐに口の端をあげた。
「山南さん、あの研究、止められたいのか?」
「おや、何の話でしょう。」
「山崎から色々聞いてるが?」
「それなら仕方ないありませんね。雪村君なら奥のベッドですよ。」
山南は唯一しまっているカーテンの方を目で指し示す。
「ちょうどよかった。土方君、彼女をお願いしますよ。連れて帰って下さい。」
「俺が?」
「そのつもりじゃないんですか?」
全てわかってるんですよ、という表情で念を押しされ、
土方は山南に対し、何も言い返せなくなってしまう。
「じゃ、私は用事があるので。」
図星のようだった土方が黙り込んでしまったのを見て、
山南は満足そうにして保健室を出て行った。
カタンと音がしたから、
恐らく山南が在室かどうかを示す札を不在にしていったのだろう。
一つため息をつくと土方は、教えられたカーテンからベッドを覗く。
「千鶴?大丈夫か?」
心配そうに掛けられた声に、小さな声で反応があった。
「ひ…じかた、せんせ…?」
やや熱で掠れたような声だ。
同じように熱だろう、頬が赤い。
「どうして…?」
「平助から聞いたんだよ。おまえを保健室まで連れてったってな。
朝の授業の時からどこか調子が悪そうだったし。」
土方は近くにあった椅子に腰掛けた。
「気付いてらしたんですか。」
「おまえはわかりやすいからな。」
千鶴は何か言い返そうとしたのか、一度口を開くが何も発することなく閉じられた。
土方は、そっと千鶴に手を伸ばす。
額に触れると、高い体温が伝わってきて、まだ熱があるのだと教えていた。
そっと手を離すと、一瞬だけ、千鶴が名残惜しそうにした。
「千鶴、起きれるか?家まで送ってやる。」
「いいんですか?」
「だから言ってるんだよ。
山南さんの許可も降りたし、とても一人で帰れそうには見えねえしな。」
「ありがとうございます。」
弱々しく微笑む千鶴に、土方はそっと髪を梳きながら頭を撫でる。
「まだ辛いか?」
鬼教師とはかけ離れた、優しい音がする。
「少し…。」
「そうか。だったら少し休め。」
「でも…。」
「大丈夫だ、俺はずっとここにいるから安心しろ。」
遠慮する千鶴に、そっと微笑むことで、土方は安心させる。
頭を撫でていた手は、頬に下り、そっと添えられていた。
千鶴の手がその手に重なった。
「無理することはないさ。こういう時位甘えやがれ。な?」
「はい…。」
力なく答えながら、千鶴は眠りについた。
自分の手に重ねられていた千鶴の手を取り、握りしめてやる。
すると、その手が軽く握り返された。
1時間ほどして目を覚ました千鶴は、変わらず心配そうに見つめる菫色の瞳と出逢う。
「大丈夫か?」
「さっきよりは少し、楽です。」
「それならよかった。」
気持ちはっきりした千鶴の答えに、ホッとしたように眦を下げた。
「帰るか。」
「はい。」
弱々しく頷いた千鶴が、ゆったりとした動作で体を起こそうとすれば、
土方はそっとその背に手を添えて支えた。
半身を起こしたところで、千鶴の体を冷やさないようにと自分のジャケットをかけてやる。
どうにか立ち上がった千鶴は、やはりふらりとしてどこか覚束ない。
咄嗟に土方に掴まった千鶴は
「…すいません。」
と小さく謝り慌てて手を離そうとしたが、それより早く土方の腕が千鶴の腰に周り、
しっかりと自分の体に寄せるようにして支えた。
「謝る必要はねえよ。さっきも言っただろ、こういう時くらい遠慮しねえで甘えやがれ。
辛いなら俺に掴まって構わねえ。その方が俺も安心する。」
優しく告げた土方に、千鶴の顔にいつものそれには遠いが、綺麗な笑顔が戻った。
「ありがとうございます。」
恐る恐る土方の背中に手を伸ばし、ぎゅうっとシャツを握った。
それを確認してから、土方は千鶴の鞄を渡し
「ゆっくりでいいからな。」
「…はい。」
保健室から近い、職員の出入り口へと向かう。
本来の千鶴なら校内でこういったことをすれば、
まだ学校だの誰かに見付かるだの言って嫌がりそうなものだが、
今は縋るように土方に掴まっている。
「土方先生…。」
いつの間にか一番近いところに止めてあった土方の車に着いた時、
助手席に座りながら千鶴が土方を呼ぶ。
「どうした?」
千鶴の手は、まだ、その体を支えるようにしている土方の腕に置かれたまま。
そうじゃないもう片方の手で千鶴を撫でながら優しく先を促す。
千鶴は辛いのか、恥ずかしいのか、顔を俯かせている。
「嬉しかったです、先生が来てくれて…。やっぱり心細くて寂しかったから……。」
俄かに、土方の腕に置かれた手に力がこもった。
土方は、腰を屈めて千鶴を覗き込む。
慈しむ温かな微笑みを浮かべていた。
「千鶴、もし何かあったら、いつでもいい、電話しろ。
辛いとか心細いと寂しいとか怖い夢を見たとか、そういうことでも遠慮すんな。俺は傍にいる。」
頭を撫でていた手は、今も熱で熱い頬に添えられていた。
「そして早くよくなれ。」
「…はい。」
潤んだ瞳を親指で拭い、立ち上がり際、小さなキスを一つ降らせた。
「寝てていいぞ。」
自分も車に乗り込むと、千鶴にそう声をかけ、車を走らせた。