混濁する意識の中目が覚めた。
真っ先に視界に入ったのは、泣きそうな千鶴の歪んだ顔だった。
大丈夫だ、そう言おうとした言葉は、掠れて音に鳴らなかった。
伝わったのか
「はい。」
とだけ言った千鶴の瞳から、大粒の涙が零れていた。
風間との最後の戦いの後俺はどうしたのだろうか。
そこから先の記憶がない。
問えば、大鳥さんと島田が色々手配してくれたらしい。
どのくらい時が経ったのかはわからんが、疲れた様子の見える千鶴の顔から、
その日からずっと俺の看病をしていたのだろう。
体を起こすことも未だ出来ず、体を走る痛みは消えてはいねえ。
腹から走る刺激に顔をしかめれば
「大丈夫ですか?」
更に心配げに歪めた千鶴の声がかかる。
「大丈夫だ。」
二度目のその言葉は、やっぱりまだ掠れてはいたが、
確かな音になって千鶴の耳に届いたようだ。
「大丈夫だ、千鶴。直に治る。」
「はい。」
どうにか微笑んでみせる姿が、痛々しい。
「何か悪い夢でも見られてたんですか?」
「魘されていたか?俺は。」
「はい。」
合間に、か細いその手で俺の上半身を少し起こし支えて、水をを含ませてくれた。
喉を伝う水分が妙に心地よく、そろりと気遣う千鶴の仕草に、心が落ち着いていくようだった。
ゆっくりと再び褥に横たわれば、手拭いで汗を拭いてくれ、別の濡らした手拭いを額に置いてくれた。
体が熱い熱いと思っていたのは、傷のせいで熱でも出たのか。
「大丈夫ですか?」
その二度目の千鶴の問いは、体のことではない。
「そんなに酷いうなされようだったか?」
「それはもう、起こしてしまいたくなるくらいに。」
ああだからあんなに目一杯涙を溜めて、あんなに悲痛な表情をしていたのか。
「そうか…。」
正直、見た夢の内容は漠然とした記憶にしか残っておらず、はっきりとしたことは覚えちゃいねえ。
千鶴の言う通りなら、覚えていなくてよかったのかもしれねえなと思う。
「おまえがいなくなる夢だ。」
それだけは覚えている。
千鶴の瞳が、一瞬、見開く。
それは本当に一瞬で、今度は自然と柔らかな千鶴らしい微笑を見せてくれた。
「私はお傍におります。だって、局長命令を押し切って
函館まで追いかけてきたんですよ?離れるわけないじゃないですか。」
俺を元気付ける為か、おどける口調で千鶴は言った。
その通りだ。
ついてくるなと、邪魔になるとまで言って仙台に残れと
局長命令を出した筈なのに、こいつはあっさりとそれを破って追いかけてきたのだ。
再三、函館を離れないかとそれから提案したものの、
嫌だと傍にいると言い張ったのは間違いねえ、目の前にいる千鶴なのだ。
そんな千鶴が俺の傍を離れる筈ねえじゃねえか。
「そうだな。」
ほぐれた心は、自然と俺にも笑みを呼ぶ。
「土方さんがイヤだって言っても、絶対に離れませんから。
離しませんから。安心してください。私がお傍にいたいんです。」
「俺も、離す気はねえしな。千鶴。」
床から見上げる千鶴は、不覚に綺麗だと思った。
傷の痛みで上がらない腕がもどかしい。
その涙を拭うことが出来ねえ。
ああは言っても、潤んだままの瞳と時折悲しげな色が
見え隠れるするその実は、きっと不安で心配でたまらないのだ。
本当なら抱き締めてやりてえ。
俺自身、その温もりを欲しているのだ。
ならせめてと千鶴を呼ぶ。
「千鶴。」
「はい?」
「手を出せ。」
言われるがまま、千鶴は俺にそっと手を出す。
辛うじて伸ばせる範囲の遠慮がちの手を握る。
「温けえな、おまえの手。」
桜の散り始める季節とはいえ、今の自分は日が暮れた夜に近い。
蝦夷の地は日が落ちれば、それなりに冷える筈。
しかも、さっき手拭い水に浸し換えてくれたばかりじゃなかったか。
なのに、思いの外温かくて驚いたのだ。
俺の方が熱がある筈なのに、どうしてこうじんわりと染み入ってるんだろうか。
「そうですか?さっき水に浸かりましたから冷たいと思いましたけど。」
「いや、温けえよ。」
その手を自分の方へと引き寄せる。
微かな息を飲むような声が上がったが、その頬が赤い。
「暫くこうしててくれねえか。おまえがいると落ち着くな。」
「え?」
「今度はいい夢が見れそうだよ。」
「私もなんだか安心してしまいました。」
はにかんだ笑顔に、どれだけ心細い思いをさせたろうと思う。
戦の行方は気になるが、起き上がることさえ許されないこの体は、そろそろ限界だと訴えやがる。
全てのことに通じるのは、早く回復させることか。
「今は、ゆっくりお休みください。そして早く元気になってください。」
切ない響きを持つ千鶴の声に誘われる様に、重たく瞼が下がる。
そっと強くなる柔らかな温もりを持つ力に、いつだって俺を支え続けたのは
この温かな手だったと、霞む意識の中に思い出し握り返したところで、俺の意識は再び途切れた。
お題:「群青三メートル手前」#長文五十音題(壱)手を掴んで引き寄せて