何気なく出た路地裏で私は黒猫と出逢った。
野良猫とは思えない艶やかな毛並み。
一つ瞬きした黒猫は黄金の瞳で私をじーっと見ている。

みゃあ

小さく、でもしっかり聴こえるような声で一つ黒猫が鳴いた。
どうしてか私は黒猫から目が離せなくて。
もう一度

みゃあ

鳴き声を上げた黒猫をすたすたと軽い足取りで歩いていく。
気がつけば私はその黒猫のあとを追っていた。
黒猫も時折私を確認するかのように振り返っていた。
と、男の人の声がする。
よく通る低い声。

「クロ。」

みゃあ

その声に答えるように鳴いた。
形のいい手が現れた。

「おいで。」

黒猫は迷いなくその手に飛び込んでいく。
私の足が止まった。
黒猫を抱き上げる人影。
優しく微笑む横顔に目が釘付けだった。
黒猫の毛並みと同じ髪色のその男の人は、黒猫の視線と鳴き声にこちらを向いた。
菫色の深い瞳がとても綺麗だった。





「千鶴。」

耳元でした声にはっとすると土方先生が心配そうにこちらを見ていた。
夢の中と同じ菫色の瞳。
私はまだ夢の中にいるのかと見惚れてしまった。

「先…生?」

まだ起ききらない頭。
目の前の土方先生はその瞬間なんとも言えない顔をしてすぐに笑った。

「そんな甘えた声出すな。襲いたくなるだろうが。
 そんなに俺が待ち遠しかったか?」

揶揄するような響きに我返った。

「誰も甘えてません!!」

途端に顔が熱くなる。
ここは土方先生が私室にしている教科準備室。
職員会議に出ていた先生を待つうち、つい居眠りしてしまったようだ。
そんなに長い時間眠っていたわけじゃないのに、
随分と長い夢を見たような気もする。
夢を見るのも久々だった。
夢は起きた瞬間に忘れるものだなんて言うけれど、
私はさっき見た夢を鮮明に覚えていた。
甲高い音がして、隣のならんでいた
年季の入った椅子に、土方先生が腰掛けたのだとわかった。

「珍しいな、あんな風にしておまえが寝てるなんて。」

なんだか恥ずかしくて俯いていた私の頬に優しく手を添えながら先生は言う。
ゆったりと顔を上げさせられて、真っ直ぐに視線が絡んだ。
普段学校でよく見る”先生”としてより、素のままの愛情が乗った視線に私は弱い。
今度は照れくさくて視線を外してしまいたくなる。

「すいません。」
「謝る必要はねえよ。俺が待たせすぎて
 疲れたのかと思っただけだ。遅くなって悪かった。」
「いえ、お仕事ですから仕方ありません。でも…」
「でも?」
「逢いたかったです…。」

素直に口にするには少し抵抗があったけど、
それよりもやにわに見せる綺麗な笑顔にまた、私はドキッとしてしまう。
それに――

「夢を見てしまうくらい…。」

待つ間に見た夢が気になっていた。

「だからびっくりしたんです。
 目を開けたら夢で見た人と同じ人がいるんですもん。」
「それは嬉しいな。」

窓から入る光はすっかりオレンジ色に変わっていた。
土方先生にその光がかかり、より一層、夢で見た情景と重なって。

「でも正直、妬けるな。」
「え?」

思わぬ言葉に驚いた。
妬くもなにも、土方先生本人なのに。

「いくら夢の中に出てきたのが俺でも、
 そんなにいい表情(かお)させるなんてよ。」

土方先生の口の端が愉快に上がる。

「そうだろう?」

頤を捕われ見えない力で引き付けられる。
視界が影って目を閉じれば、柔らかい唇の感触がする。
そのまま私はもう片方の腕で抱き寄せられる。
ややあって離れた時には、すっぽり力強い両腕に抱き締められていた。

「先生、ここ学校…。」
「誰も来やしないさ。」
「でも…。」
「寂しかったか?」

囁くような優しい声に泣きそうになった。
梳くように撫でるその柔らかい手にも。

「……はい。凄く寂しかったです。」

ゆっくりその腕の中に身を預ける。
そこは凄く温かくてとても落ち着いた。
寂しくて逢いたくて。

放課後、すぐに来た筈なのにこの部屋には
土方先生の姿はなく、職員会議に出てると一言メモがあるだけ。
明日から週末、せっかくだからご飯に行こうと誘ったのも土方先生で、
とてもわがままだと思うけど誰もいない部屋がとても寂しかった。
いつも先生が座るその場所に座ったのも、
少しでも寂しさを紛らわせたかったから。
仕事だから仕方ない。
そう思って納得してる自分がいても、
やっぱりどこかで大好きな彼を欲していたんだと思う。

『寂しかったか?』

夢の中、黒猫を抱き上げた男の人もそう言った。
あの黒猫はもしかすると自分自身だったかもしれない。

「俺もだよ、千鶴。」

よく通る低い声が心の奥のずっと奥まで沁み込んでいく。
離れがたい温もりに、頬を摺り寄せれば
抱き締める力が強くなって、思わず笑ってしまった。

「何がおかしい。」

少し拗ねたようなむっとした声に、私は顔を上げて微笑んで言う。

「だって、正夢になりました。」

夢と同じ菫色の深い瞳が細められた。

「だからもう妬かないでくださいね?」

悪戯気に言ったら土方先生はバツが悪そうにする。
それがおかしくて私はまた笑ってしまった。

「そんなに笑うことか?」
「すいません、あまり見れない土方先生だなと思って。」
「悪かったな。」

近付く距離に私はまたゆっくり目を閉じた。