そう言うけれど。
私だって呼びたいのは山々。
だから今日こそは――、そう思ってしまう。
千鶴は、夕餉の準備の時間中。
物思いにふけるささやかな一人の時間。
千鶴は、何度か言われた土方の言葉を思い出していた。
「土方さん」ではなく「歳三さん」と呼んでほしいと。
だけど、無理強いするでもなく
彼の優しさが、「呼べる時でいい」と言わせていた。
千鶴だって、呼びたくないわけじゃない。
何度も喉まで出掛かって何度も飲み込んでしまった。
恥ずかしさや照れ臭さが
呼びいたい気持ちと相まってそうさせてしまう。
…はぁ
小さなため息一つ。
本当は今すぐにでも呼びたい。
「…歳三さん。」
練習練習と、消えそうな小さな声で名を呼んでみる。
「…歳三さん。」
こうしては呼べるのに、
なのに本人を前にするとどうしてか呼べなくってしまう。
「…歳三さん。」
練習練習。
今日は呼びたい。
「…歳三さん。」
そろそろ作っていた味噌汁も仕上がる。
もう土方に声をかけなくては。
でも、その前にあと一回だけ。
「…歳三さん…。」
「やっと呼んでくれたか。」
「っ?!」
近い距離で土方の声をして、千鶴は思わず肩を躍らせて驚いた。
幸い火は消していた。
まさか聞かれていたとは。
さっと頬が熱くなる。
大して土方は嬉しそうだ。
「えっあ、あの…。」
「そろそろ夕餉の時間だろうと覗いてみたら、お前が物思いに耽ったように、
何かぶつぶつ言ってたみたいだから熱でも出たのかと思ってよ。」
「熱はありません…!」
「みたいだな。」
土方は、千鶴の額に手をやって熱を確認した。
千鶴は何より、”練習”を聞かれていたかと思うと気が気でなく。
「で?何を考えてたんだ?」
「…それは……。」
とても言えるものではなく。
恥ずかしさが先に発つ。
「お前のことだ。名前を呼ぶ練習でもしてたか。」
「どうしてそれを…?!」
そこまで言って、千鶴はハッとした。
これでは肯定したも同じである。
「やっぱりな。呼べるようになったみたいだな。」
頬の熱さがなかなか離れない。
加えて近い距離、逃げることも出来ず。
それでも土方の優しい笑顔に、こんな形でも呼べてよかったとふと思う。
一度呼んでしまえば、きっと呼べることが出来るはず。
なかなか離れず、それどころかそっと
頭を撫でてくれる土方に、夕餉の時間は押すばかり。
「あのっ…と、歳三さん…。」
言った傍で冷めてきた頬の熱がまた熱くなる。
同時に満たされる胸の奥。
「夕餉の支度がしたいので…その…離れていただけませんか?」
「それもそうだな。」
ポン…と頭を撫でられ、その温もりが離れていく。
それでも夕餉の準備に気を改める。
そしててふと思った。
土方が、何度も自分を名前で呼んで
欲しいといった理由が、わかったような気がした。
ただ、名前で呼んだだけ。
なのに、少し幸せが増したようで。
さっき、名前で呼んで満ちた心の奥。
そうか、と思う。
夫婦となってからも千鶴は土方のことを、「土方さん」と呼び続けた。
土方曰く「そういう関係なんだから」名前で呼ぶのが自然だろう、と。
自分が呼んでみて気がついた。
心の距離がぐっと近付いたようで、幸せがより円やかになったようで、
たったそれだけのことなのに幸せの見方が変わったことに。
土方はずっと、そのことを望んでいたのかもしれない。
そう思うと、名前で呼べた喜びと、申し訳なさとが入り混じる。
「おい、千鶴!まだかー。」
「はい、ただいまお持ちします!」
また手を止め考え込んでしまったと、わたわた支度の手を進めていく。
二人だけのささやかな暮らし。
新しい幸せのくすぐったさを噛み締めながら、
近くなった心の距離を感じながら、愛しい人の名を呼んでいく暮らし。
――歳三さん、大好きです。