掴んだのは空(くう)で、あっという間に消えた。
残るものは何もない。
あるのは暗闇だけ――。
はっとして目が覚めた。
つうっと流れ落ちた涙。
ああ、夢か…。
千鶴は、ふうと息を吐く。
それから涙を拭った。
この人に見せてはならない。
また余計な心配をかけてしまうから。
隣で眠る土方を見る。
早めに床を出て着替えてしまおう。
そして顔を洗って朝餉の準備をしてしまえばきっとわからない筈。
そう思って静かに床を出た時、衣擦れの音に気付いたのか、それとも
千鶴の動きに起きてしまったのか、小さな声を上げて土方が目を覚ました。
「千鶴?」
気配に聡い土方は何かに気付いたのか千鶴の名を呼ぶ。
「おはようございます。」
出来るだけ声が震えないように気をつけて挨拶をする。
「起こしてしまいましたか。」
「いや、構わねえよ。」
千鶴はそのまま床を出て勝手場に向かおうとする。
気付かれたくない。
また貴方を失う夢を見て泣いていたなど。
笑顔でいようと決めたのに。
「千鶴。」
優しい声が千鶴を引き止める。
「どうした?」
そんな風に優しくしないで下さい。
千鶴は心の中でそう呟く。
だって貴方に優しくされたら泣いてしまう。
今にも壊れそうな心を優しく包まれてるみたいで。
その優しさが怖さに繋がってしまう。
その優しさにずっと包まれていたいと願ってしまうから。
弱い私を見せたくはないから。
だから優しくしないでくさい。
「なんでもありません。朝餉の準備をしてきますね。」
今度は千鶴は勝手場に向かった。
その背に土方の視線を感じながら。
優しくも切ない視線を。
また夢を見た。
貴方を失う夢を見た。
どうして。
柔らかな感触に目が覚めた。
半身を起こした土方が千鶴の涙を拭ったのだ。
「あ…。」
「怖い夢でも見たか?」
千鶴も体を起こし、まだ頬に置かれたままの無骨な手をそっと離す。
「千鶴?」
黙ったままの千鶴に訝しげに尋ねる。
「大丈夫ですから。」
精一杯笑って見せたのに、涙が零れ落ちた。
「大丈夫じゃないだろう。」
気遣う土方がまた涙を拭おうと手を伸ばした時。
「優しくしないで下さい!」
半ば叫ぶように言った。
優しさに甘えたくない。
貴方を失った時が怖くなる。
「千鶴…。」
「優しくしないで下さい…。」
小さな呟き。
褥にぽたぽたと涙が落ちる。
涙が止まらない。
土方が強い力で千鶴の腕を引き寄せ抱き締める。
「どうしてか聞いてもいいか?」
やはり優しい声の土方が問う。
「夢を見るんです。貴方を失う夢を…。…怖いんです…。
貴方に優しくされる度、貴方がいなくなった時が怖くなるんです。」
ぽつりぽつり、千鶴は零していく。
まるで先ほどから零れる涙のように。
「ずっとその優しさに包まれていたいと願ってしまって。
でも、反面凄く不安で。弱い私を見せたくなかった…。」
土方の寝着を握る千鶴の手が強くなる。
「だから優しくしないで下さい…。」
「俺も怖えよ、千鶴。」
まっすぐな絹のような千鶴の髪を土方は撫でるように梳いていく。
「おまえの気持ちはわかった。そんな風に千鶴が
不安に思ってたなんて気付かなくて悪かったな。」
土方の腕の中で、千鶴が首を振る。
語りかけるように土方は話す。
「でもな、千鶴。俺は千鶴との一日一日を大事に生きて生きてえんだ。
不安なら不安だって言やあいい。俺はおまえが今みたいに無理したりするのが一番辛い。
不安になる気持ちはわかる。怖い気持ちもわかる。
でも俺は、おまえに優しくするなって言われる方が結構堪えたな。」
最後は小さな自嘲にも似た笑いと共に言葉が届く。
「…すいません…。」
まだ嗚咽の混じる声で小さな謝罪の声が届く。
優しくしないでほしいと願ったのに、今はこの腕の中が心地いい。
「どこにも行かないでください…。」
「ああ、どこにも行かないさ。」
一際しゃっくりを上げ千鶴に優しく額に口づける。
まだ顔を上げられない。
泣き腫らした顔を見せたくないという今度は別の思いが湧き上がる。
「あんなこと言ってすいませんでした。」
優しくしないで下さい、と言ったこと。
今思えば傷付けてしまったのかもしれない。
「気にするな。」
頬に滑る無骨な手が涙を拭う。
「不安なら不安だって言えばいい。一人で抱え込むな。」
「はい。」
頤を捕まえられて自然と顔を土方に向ける形になる。
なんとなくバツが悪くて目が合わせられない。
小さく笑った気配がした。
親指で下唇をなぞられる。
「安心しろ。俺はここにいる。」
それから優しい口付けが降りてきた。
さっきまでの不安は消えていた。
怖さもなくなっていた。
きっとまた何度も抱えるものだろうけど。
「な?」
「はい。」
千鶴の顔にやっと微笑が浮かんだ。
綺麗だ、と土方は思う。
同時にこんなに思いつめるほど悩んでいたことに気付けなかったことを責めた。
だけど、その微笑に安堵した。
怖いのは俺も同じだ。
だけど千鶴がいればそれでいい。
一日一日を大切に生きて生きたいから。
「千鶴、そろそろ寝るか。」
「そうですね。起こしてすいませんでした。」
時刻は深い時刻。
まだ外は暗い。
日が昇るにはまだまだ時刻がある。
「もう悪夢は見ないと思うぜ。」
貴方がそう言うのならきっとそうなのだと思う。
寄り添う温もりは確かなもので。
千鶴はそっとその温もりに促されるように目を閉じた。
その日見た夢は優しい夢だった。
「おはようございます、歳三さん。」
「ああ、おはよう、千鶴。」
笑い合う日常の朝。
どうか夢に見た日々が続きますように――。