この2・3日、千鶴はあることに悩まされていた。
正確にいえば、怯えている。

その始まりは1本の電話からだった。
最初は間違い電話だと思って気にしないようにしていたが、どうも違うらしい。
1度だけではなく、何度もかかるようになっていた。



千鶴の様子がいつもと違うことに、土方はすぐに気が付いた。
何かに怯えてるような、怖がっているような。
顔色もあまりよくない。

「おい、千鶴。」

古典の授業が終わった土方は、真っ先に千鶴に声をかけた。

「ちょっと来い。」
「はい。」
「何かあったか?」

ちぃと唐突過ぎたか、土方は内心後悔したが、既に出てしまった言葉は変えられない。
千鶴は、微かに肩を震わせたが、

「いえ…なんでもありません。」

と、いつになく小さな声で答えた。
元より、嘘がつけず、すぐ思っていることが顔に出てしまう性格だ。
土方自身も聡い人間で、よっぽどなことでない限りすぐに看破してしまう。

「なんでもないように見えねえが。顔色もよくない。」
「ちょっと眠れなかったので…」
「それだけか?」

千鶴は、一向に顔を上げようとしなかった。

「………はい。」

消え入りそうな声で、あくまでなにもないと貫く千鶴に、土方は小さく嘆息した。

「千鶴、放課後暇か?」

前振りなく言われた言葉に驚いて、千鶴は弾かれたように土方を見遣った。

「やっと俺の顔見たな。」
「あ…。」
「授業終わったら俺んとこに来い。少し手伝え。」
「はい。」

本来のものではないが、それでも彼女らしい笑顔が覗いた。
その笑顔に少しは安心した土方は、思わず千鶴の頭へと手を伸ばしかけたが、
学園内だということを思い出し、何事もなかったように引っ込めた。
幸い、というべきか、千鶴は気付かなかったようだ。

「呼び止めて悪かったな。」
「いえ…ありがとうございます。」
「放課後、よろしくな。」

席につく千鶴を見送った後、土方は次の授業へと急いだのだった。



放課後、職員室ではいつになく不機嫌な土方の姿があった。
それを象徴するように、絶えず紫煙が土方の周りに漂う。

「遅え。」
「どうした、土方さん。」

帰り支度をしていた原田が、土方に不思議そうに問い掛ける。

「誰か待ってんのか?」
「千鶴だよ。仕事頼もうと思って、放課後来いと言ってあるんだよ。」
「千鶴ちゃんか…。」

原田が思案顔で、千鶴の名を繰り返す。

「原田、なに………」
「だあああああ!何やってんだよお前はあああああ……!!」

土方が何か知ってるのか、と原田に聞こうとした時、永倉の絶叫がこだました。
どうやら、また競馬に負けたらしい。

「ごふ…っ!」

質問を遮られた土方が、永倉に渾身の一撃を喰らわせ、そのまま崩れ落ちた。

「土方さん…今のはねえよ…。」

弱々しく反論するが

「おまえがうるせえのが悪い!」

鬼の一喝がすぐさま返ってきた。

「左之…。」
「今のはおまえが悪い。」

唯一の味方、とも呼ぶべき原田にも言われてしまった永倉は、ガクッとうなだれた。

「原田、おまえ何か知ってんのか?」

さっき遮られた質問をぶつける。

「あ?ああいや知ってるというか、さっきここに戻る時見かけたんだよ。」
「千鶴をか?」
「ああ。男子生徒が一緒だった。ありゃ多分3年だな。その時の様子がちょっと気になってよ。」

原田が奥歯に物が挟まったような、ひっかかるように話す。
さすがの土方もその様子が気になった。

「どういう意味だ?」
「なんつーか、千鶴ちゃんの意志で、というよりか」
「連れていかれたってことか。」
「さすが土方さん。」
「感心してる場合かよ。」

嫌な予感が土方の頭に過ぎった。
ガタっ…と盛大な音を立てて立ち上がると、口にしていた煙草を灰皿に押し付けた。

「原田。おまえ、これから帰るんだよな?」
「ああ。」
「だったらこいつ持って帰れ。うるさくてかなわねえからな。」

こいつ、とは勿論色んなダメージを受けてしょげ返っている永倉のことである。

「新八、帰るぞ。」

土方に答える代わりに、原田は永倉に声をかけた。
それを確認すると、土方は職員室を後にした。

「となると、屋上か…」

人生経験だけでなく、恋愛経験も豊富な土方である。
男子高校生が何をしようとしているか安易に想像がついた。
だが、土方の胸にはそれ以上に嫌な予感がしていた。

「なにもなけりゃいいが……」

土方は屋上へと足を早めた。



千鶴は、土方の予想通り屋上にいた。
目の前にはこの学園の男子生徒。
何故か千鶴を塞ぐようにしている。

「あの、土方先生に呼ばれてるんです。早く行かなくちゃ怒られてしまいます。」

困惑したようにこの場から去ろうとするが、相手はにこやかに微笑むのみ。

「大丈夫だよ。その時は僕が怒られてあげるから。
それよりも雪村さん、僕、君が入学した時からずっと君のことが気になっていたんだ。それでね」

千鶴には口を挟む隙を与えず、自分の主張を口にした。
君のことが気になっている、普段の千鶴なら、こんなことを言われれば、頬を染めて戸惑いそうなものだが、
男子生徒の笑顔に本能的に危険を感じ始めているようだ。
顔が引き攣っている。

「このところ君は誰かの家にしょちゅう行っているようだね。しかもそのまま泊まることもある。
最初は女友達かとも思ったけど、君の様子からすると違うらしい。
やっと君に連絡できたというのに、最初に出たっきり君は出てくれないし。」

男子生徒の話を聞いて、千鶴の中でここ最近起きていた、恐ろしく不可思議なこと全てが繋がった。
後退りをする。

「そんなに怖がらなくてもいいのに。」

表情を一切変えず、男子生徒は千鶴に歩み出た。
また一歩千鶴が下がるが、その分男子生徒が前に出る。

「でね、何が言いたいかと言うと、君が誰と付き合ってるかはわからないけど、そんな男やめて僕にしてよ。」

まだ、千鶴の相手が、鬼教師の名高い土方だとは気付いてないようだ。

「嫌です!」

悲鳴に近い声で、千鶴は男子生徒の申し出を断った。
後退り、前に出て、二人の距離は縮まらないまま、千鶴は後ろに追い詰められる。

「まだ君は僕のことをよく知らないからそんな事を言うんだね。
大丈夫、これからゆっくり知っていけばいいんだから。」

ガシャンと音がして、千鶴の背に屋上の柵が当たった。

逃げられない――、千鶴はそう感じた。
助けて土方先生……!と心の中で助けを乞う。

「だから…」

男子生徒の手が千鶴の顔に伸びようとした時だった。

「おいっ!」

一際鋭い声が屋上に響き渡った。
これだけの鋭さを声に宿せるのは、学園内でただ一人。

「土方先生!!」
「土方先生!?」

安堵の声と恐怖の声が重なった。
土方は、千鶴を見やると、眼差しに少し気遣わしげな色を浮かべた。

「千鶴、何かされてないか?」
「はい………まだ……。」

千鶴の答えに、危ないところだった内心安堵した。

「もう少し待ってろ。」

それだけ言うと、瞬く間に凍てつくような眼光で男子生徒を睨みつける。

「おまえ、こんなところで何してやがる?」

地を這うような低い声を、容赦なく男子生徒にぶつけた。

「あ、あの…ちょっと雪村さんと話をしようと思っただけで…」
「ほう?」

口の端がニヤリと上がり、更に鬼の形相と化す。

「おもしれえことを抜かしやがる。この状況でよく言えるよな。」

喉の奥で噛み殺したように笑う。
土方は全てわかった上で言っているのだ。
男子生徒は顔面蒼白、冷や汗を浮かべている。
どうやら土方を最高に怒らせたらしい。
土方は、千鶴のところまで来ると、その腕を取り、自分の方へと抱き寄せた。
千鶴はその胸に縋るようにしがみつくと、小さく息を吐き出した。

「惚れた女にすることじゃあねえよな。」

男子生徒は、口をパクパクさせるだけ。

「それにおまえ、すげえ覚悟だよなぁ。鬼教師の女に手え出すたあ。」

土方の言葉に男子生徒の目がみるみるうちに見開かれていく。
これには千鶴も驚いていた。
だって二人の関係は秘密にしている筈だから。

「そういうわけだ。こいつ俺のもんだ。鬼教師のものに手を出すたあいい度胸だな。」

男子生徒はフルフルと首を振った。
更に青白くなったように見える。

「で、わかってんだろうなあ?」

土方は凄みを効かせた。
元が綺麗な顔をしているだけにその効果は絶大だ。

「おまえも三年間この学園にいたんなら、身に染みるほどわかってる筈だ。
鬼教師のものに手を出したらどうなるか、余計なことを言い触らしたらどうなるか。」

コクコクと小さく、でもはっきりと頷いた。

「すいませんでした!」

脱兎の如く、男子生徒は屋上から逃げ出した。

「100年早えよ。」

その背中に捨て台詞を吐くと、腕の中にいる千鶴に優しく声をかけた。
そこに先程までの鬼教師の片鱗は見受けられない。

「千鶴、大丈夫か?」

そっと顔を覗き込むと、涙を目にこれでもかと溜めていた。

「せ、先生が来てくれましたから…」

土方の服を掴む手も体もガタガタと震えている。

「ったくこんな時まで強がりやがって。ほら。」

土方が千鶴の顔を自分の胸に埋めるようにして、ポンポン…とそっと頭を撫でてやると、更に肩が震え出した。

「こ、こわ…怖かった…!」
「もう大丈夫だ。怖い思いをさせたな。」

背中をそっとさすって、土方は千鶴が落ち着くまでそうしていた。
やがて、千鶴の震えがおさまってきた。

「少し落ち着いたか?」
「はい…すいません…。」
「もしかしておまえがどこか様子がおかしかったのはこのせいか?」
「……はい。」

千鶴は、このところ起きていた出来事を全て話した。
聞き終えた土方は、半ば呆れたように嘆息した。

「おまえ…どうして俺に言わなかった?」
「それは…心配かけたくなくて」
「こうなってから心配するより、何倍もマシだ。寿命が縮むかと思ったぜ。」

大袈裟だなぁと千鶴はくすりと笑った。

「千鶴、おまえにならどれだけ心配かけられたってもかまわねえよ。
惚れた女の心配ならいくらでもしてやるさ。心配させてくれ。」
「土方先生…」
「だから、これからはどんな小さなことでもいい。何かあったらすぐ俺んとこに来い。」

土方の優しい言葉に、千鶴の目にまた涙が溜まる。
今度は、嬉し涙だ。
土方の無骨な手がその涙を拭う。

「じゃないと肝心な時におまえ守ってやれねえからな。」

それは穏やかな笑みと共に降ってきた。

「はい。」

今度は千鶴から土方の胸に顔を埋めた。
もう少しこのままでいたい、そう告げるかのように、千鶴の土方を抱きしめる手に力が入った。



それから、二人はしばらくそのままで、気が済むまでそうしていた。
帰り道、

「あんな男に番号知られたままってのはどうも気にくわねえ。」

そう苦笑しながら土方は千鶴に新しい携帯を買ってやった。

「ありがとうございます。そういえば、言ってしまってよかったんですか?」
「何をだ。」
「えっあの、…先生と私とのこと。」
「ああ、心配しなくても大丈夫だよ。鬼教師に歯向かえねえさ。」

それはどこか楽しそうにも見える笑顔で土方は言った。

――本当に土方の言う通り、学園内はそれからもいつもと変わらず、
土方と千鶴のことは話にも噂にもならなかった。