大事にしてえもんが擦り抜けていく。
道すら見失った。
それでも剣を振り続けた。
この手を血に濡らす度、いいや、この手に染まる血が増えて行く度、重ねていく毎――
――泣いていたのだろう――
――涙の代わりだったのでしょう――
夕陽は、心の奥を抉る事があった。
あの日も確か夕陽を見ていた。
時折、この手が血に濡れ朱に染まったように見える。
拭っても拭っても消えないそれは、証でもあり、傷でもあり、俺が生きた確かな過去であり。
決して忘れることも許されねえ、決して忘れられることも出来ねえ、大事なものでもあるのだ。
―この手で守っていただきましたから―
俺が守ったもの。
浅葱と朱に彩られたこれまでの俺の生き様。
それでも誇りに思えるあいつらと戦った日々。
―守りたいものを守り続けただけだ―
その結果、いくつもの大切なものを失ったとしても、
大切な人を失ったとしても、全部を失ったわけじゃあねえ。
信じたいものの為に走り続けた。
ぽろりぽろりと零れ落ちる砂のように、代わりに血の色だけが手にこびりついても。
「土方さん?」
部屋の奥から届いたのは、千鶴の声。
心許ない小さな声は、主がいない布団に不安だけを響かせた。
ふと覗いて見えた風景に、惹かれるまま這い出したから寝間着のまま。
未だ力の戻りきってない体は、だらしなく柱の一つにも凭れるしかなく、寄りかかるように縁側にいる。
胡坐をかいたつもりがそれすらも形ばかり整えるので精一杯となれば、そうなるのも仕方ねえ話。
「千鶴、こっちだ。」
居所を知らせてやれば、ほっと息つくのが聞こえ
「そちらでしたか。」
今度は安堵の響きで言葉が紡がれた。
「大丈夫ですか?」
一目俺を見ると、その瞳はまた心配そうに揺れる。
まだ治りきってねえんだ。
俺ですら、この状況が精一杯だ。
「ああ。」
短く答えるが、説得力は恐らくは殆どないだろう。
その証拠に、千鶴の瞳に宿る心配の色は消えちゃいねえ。
「どうかされましたか?」
俺の横に腰を下ろし、それからそう聞いた。
何を思い、何を感じたのか。
そして、俺はどんな顔をしているのか、俺を真っ直ぐに見る瞳が映し出していた。
千鶴は、俺の手を静かに握った。
それまで直視していたから、掌を上に向け、そこだけがぽつんと不思議な空間になっている。
「ちょっとな、考え事をしていた。」
小さな綺麗な手を、痛くないようにしながら確かな力を入れて強く握り返した。
血に濡れた手で掴んだものは――。
「そうですか…。」
やっぱり小さく、少し眉を下げて千鶴は答えた。
一度は手放した大切もの。
だけどこれだけは今もここにある。
一つ、また一つと零れ落ちって行った中に、これだけは含まれなかったようだ。
「俺の手は――…」
何を言おうとしたのか、そこで言葉を止めた。
「土方さん?」
不思議に思ったのか、千鶴が俺の名を呼んで促す。
「…いや、なんでもねえ。」
俄かに千鶴の握る力が強くなる。
それに微笑むことで返した。
…いや、誤魔化した、というのが正しいのか。
「……。」
千鶴は、黙ってそこにいる。
夕陽に目を向ければ、その色にあざ笑われているような感覚にすら陥る。
同時に、心にしきりに軋むような痛みを思い出させているように思えた。
羅刹に狂った後に尚更付きまとっていた、朱の色。
そうでなくとも、その色や沈み行く太陽に、懐古の情や寂寥の想いだとかを見てしまうというのに。
手だけに伝わる体温と存在が、小さく震えたような気がした。
「……。」
千鶴に目を戻せば、瞳一杯に涙を堪えている姿が目に入った。
片方の頬を、同じ夕陽の色が反射するように光っているから、既に涙が零れ落ちたのだろうか。
「……。」
俺が見ているからか、それ以上に泣くまいとする姿。
握っていないその手で、溜まっている両の目の涙を掬ってやる。
「なんでおまえが泣く。」
「土方さんが泣かないからです。」
困ったように千鶴に問えば、そぐわない位凛とした声で、真っ直ぐな言葉でそう返された。
何も言えねえ俺がいる。
黙ってしまえば、また一つ頬を伝い、千鶴は俺の肩に頭を預けた。
「土方さんが泣かないから…だから、代わりに泣いているんです。」
もう一度繰り返し、落ちた涙が寝間着に吸い込まれていく。
止まらない涙を、だけど俺には見せねえようにとそうしているのか、何かを堪えようとしているのか。
時折、小刻みにはっきりと揺れる小さな体。
しゃっくりをして、千鶴は小さな小さな声で、更に俺が言葉に詰まる言葉を告げた。
「だってもう、土方さんは剣を握ることがないじゃないですか。」
どうしておまえは――…
どうしたって声にならねえ。
千鶴もそれ以上に何も言わねえ。
こいつはわかってるんだろうか、
俺が今まで――千鶴がここに来るまで、俺が何を思い考えていたのかを。
「千鶴……。」
思えば、俺に一番近いところで見てきたのだ。
一度は手放して、それでも、俺の後を追ってきて傍に来た。
大切なものがこの手から離れていったその時その時もこいつもいたのだ。
この手が血に染まる様を違える事無く見てきたその筈なのに。
――私は何があっても土方さんのお傍にいます――
何を守っていけばいいのか、死に急いだこともあった。
言葉どおり、悔しさとやりきれなさと悲しみと深い深い感情に、
泣くのではく、赴くままに剣を振るったことさえあった。
そうでもしなけば、溢れる思いも感情も俺にはどうしようもなかった。
何よりも守りたかったもの、何より大切してきたもの、
それをなくした時、人はどうしたらいいのか。
なくなるその時までその人を支え続けた、
動かし続けていたものをなくしていって、どうしたらよかったのか。
――土方さんのお傍にいたいんです――
けれども俺を支え続けたもの。
気付いた時、俺の中で生きる道が出来た。
大切なものは変わり行き、
初めて心底惚れた女の存在に、死地を求めていた俺は生きようとした。
自分の死以上に失う代価が大きく、
もう失いたくないと命に代えても守りたいと心が震えたように思えた。
一心に思った、失いたくないと思った千鶴という存在。
「もう失いたくねえんだ…。」
これまで沢山、沢山、失ってきた。
そして、進んできた道を俺は後悔なんかしてねえ。
悔やんでも、悔しさに押しつぶされても、それは後悔なんかじゃなかった。
自分の選択が――判断が――間違っていたのだと思うこともあったが、
その時その時に最善の道を選らんで歩んできた。
これまで歩んできた俺の生き様は、
誰にも間違いだったとそれは違ったのだと後ろ指差されるつもりもねえし、差させるつもりもねえ。
じゃあどう思ってるのかと聞かれれば、
俺は今でも胸を張って自分の生き様は正しかったのだと答えるだろう。
俺は、ただ俺が出来る最善の選択して、俺が正しいと思える道を歩んできただけなのだから。
「随分と色んなものを背負って、そして、失ってきたからな。」
いつの間にかこの手は血に塗れてしまったが。
「知っています。近くで見てきましたから。…それから、私も似たようなものですから。」
千鶴の言葉にはっとする。
俺と共に歩んできた道は、千鶴にも過酷な道を歩ませたことになる。
「だけど、それ以上に土方さんがとてつもないものを背負い、守り、失ってきたんですよね。」
道を見誤った俺を、死に急いで肝心なものを見失っていた俺を、
先が見えてなかった俺を諭し、救い、先を見せてくれたのは千鶴だった。
信じるものを進み、最後の戦に身を投じた俺を、その最後まで付き従っていた。
今もこうして、俺の傍にいる。
「俺は、俺が歩んできた道を否定するつもりはねえんだ。」
「……はい。」
「間違いだったとは思わねえ。まぁ愚かだったとは思うがな。」
馬鹿だと言い続けてきた。
新選組に誠の旗の下に集った武士の志を持った者ども。
俺と共に激動の時代を駆け抜けた者ども。
俺自身。
「でも、そんなあなただから私はついてきたんです。」
ああそうだった。
そんな千鶴だから俺は傍に置いておきてえと思い、手放せなかった。
「千鶴。」
幸せを手に入れて、それでも心が揺れるのは何故だろうか。
きっとまだ過去に捕われてるんだろう。
幻ではない確かな存在をしっかりこの目で見ておきたくて、千鶴の体を自分の方へと向かせた。
「 」
発した言葉は風に消えた。
「土方さん、なんて――…?」
さっきまでの涙の名残を残すその顔が、微かに顰めた。
大切なものは形を変えてこの手に残った。
俺に勿体無いくらいの輝きに見える女は、命を懸けてでも守りてえと願ったもの。
二人で重ねる暮らしの中で、それは今でも変わらねえ。
寧ろ、この幸せを大切に大切に慈しんで生きたいとすら思える。
二人の時間を。
「なぁ千鶴、俺は随分とこの手を血に塗らしてきた。
時々そんな俺が、これだけの幸せを手に入れていいのかと思うことがある。
だがな、俺はもうおまえを失いたくない。背負っていた荷物はもう何もねえ。
これから先は、おまえとの暮らしの為だけに生きていける。
俺がこれまで走り続けた先が、千鶴との幸せな暮らしだった。
だったら尚更、俺が歩んできた生き様は誇れるんだ。」
例え、そこに大切な仲間との別れがあり、これまで沢山のものを失ってきたとしても。
この手が血に濡れていようとも。
それだからこそ、余計に千鶴という存在が、今のこの日々が幸せで大切だと教えてくれているようだった。
「もし、否定されるようでしたら、それは私が愛した土方さんじゃありません。」
きっぱりと言い切った千鶴に、知らず知らず笑みが零れた。
握っていた手はそのままに、もう片方の手で千鶴の肩を引き寄せる。
まだ慣れない千鶴は、その身を強張らせた。
ぎこちなく、俺の顔を見上げる千鶴を幸せにしたいと願う今。
そうして二人で幸せに暮らしていけたらと願う今。
「千鶴が何よりも大切なんだ。」
掠れた声は千鶴の新たな涙を誘った。
「俺は、おまえに心底惚れちまった。
この手に残ったのは、俺が何より守りたくて、何より失いないたくない、千鶴という女だ。」
もう片方の手を、俺はもう一度見つめる。
ささやかな衝撃に千鶴が体を預けたのだと知る。
さっきまでそうしていたように、千鶴は俺の手に自分の手を重ねた。
「あなたの手がどんなに血に塗れていようが、それはそのままで構わないんです。
土方さんが、大切なものを守り続け、信じた道を歩み続け、
色んな辛さと荷物を背負い、苦しんだあなたの涙で証じゃないですか。
私はこの手に守られ、あなたの背中を追いかけてきました。
馬鹿だという戦いの時代を、今、土方さんは優しい目で見てらっしゃいますよ。」
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