いつしか、夕陽はその色を濃くしていた。
差し込んでいた光は消えている。
あんなにもべったり血がついているように見えたのに、もうその影が見えない。
西の端に見える月の輝き。
「土方さんが言ってくださるように、私もそんなあなたに心から惚れているんです。
そんなあなただから私は愛したんです。」
消えないだろう、これまでこの手が浴びた血だけは。
また血に塗れた己の手を幻か過去の残像か見ることがあるのだろう。
千鶴が、俺の手に絡めた指の力を強くする。
「そんな風に言うなら、また守って下さい。私を失わないように。
私も、あなたを失わないように守りますから。それに土方さん?」
「なんだ?」
「大切なものに気付いたんです。それって凄く素敵なものなんですよ?」
少し色を染めたままに、柔らかな笑顔を浮かべた。
人は失って初めて本当に大切なものに気付くという。
そうだ、この手からこぼれおちた一つ一つも、こぼれおちてから思い知らされた。
大切だとわかっていても、その本当の重みを知るのは後の祭り。
この腕の中にすぽりと納まるその華奢な体を、
その愛しい存在を抱き寄せる力が自然と強くなる。
千鶴が俺の背中に腕を回して、やっぱり同じように力をこめる。
まだ傷が癒えない体といえど、惚れた女を抱き締めたい想いにかなうわけがねえ。
千鶴の体を、自分の体で包むようにする。
本当に大切なものは、今、ここにある。
色んなものを失っては見つけ、失っては見つけ、
そうして見つけたものは好きな女との幸せという毎日。
血に塗れたこの手に迷えども、過去の傷が心を燻らせども、
千鶴が大切だともっともっと奥の方から訴えるものがある。
無視できねえくらい、でけえ声で訴えやがる。
「土方さん、安心してください。」
そのまま黙り込んでしまった俺を思ってか、千鶴の声が明るく呼びかけた。
なんだと千鶴を見れば、いつまでも変わらない色を見せて千鶴が言った。
「私が土方さんを離しませんから。」
虚を突かれて目を見開いた。
「私も土方さんから離れられないんですよ。例え土方さんがイヤだって言っても。」
それくらい、私もあなたを想っているんです
その言葉はとても小さくて、ともすればさっきの俺のように風に消えてしまっていただろう。
幸い、俺の耳にその声は届いた。
――大切なものを守りてえ、今度こそ守りぬきてえ――
強い衝動が内側に起こった。
「ありがとう、千鶴。」
そう想うままに伝えれば、千鶴の目にはまた涙が浮かぶ。
俺の言葉に嬉しく顔をゆがめたかと思えば、光の色を変えた涙がその頬を伝う。
「土方さんが泣かないからですよ。」
誤魔化すように早口で千鶴は言った。
「そうだな。」
もう血を流すことはない。
もう剣に頼る必要もない。
俺の代わりに泣くのだという千鶴は、あながち間違いではないのかもしれない。
俺が剣で泣いていたその時、涙を沢山沢山こぼさせていたのは千鶴だった。
俺のすぐ近くで。
自分だって目の前で失ってるくせに、俺の苦しみや辛さに寄り添って自分のことのように泣いてきた。
だけど、これからはそういう涙はいらないのだと思う。
「馬鹿かおまえは。」
「一人で思い悩んでた方に言われたくありません。」
千鶴が笑顔でいられるように、その笑顔をすぐ隣で見られるように、
それが一番大切なものを守る一番の方法なのだろう。
みっともねえ部分もだいぶ見せてきた。
みっともねえといえば、こうしている姿も随分とみっともねえもんだろう。
「それより土方さん、お体は大丈夫ですか?」
体を預けながらも、完治していない俺の体を気にしていたのか。
自分のことは省みず、常に俺のことを気にしていた千鶴らしいか。
「いちいちおまえは大げさなんだよ。」
昔――そう呼ぶほどには時は過ぎてないが――やっぱり傷を負った時、
千鶴が口うるさく言ってきたことを思い出した。
あの時も、似たような言葉を千鶴に言ったような気がする。
まだ剣を握っていたあの頃。一番大切なものを失ったばかりのあの頃。
思い返せば、少しずつ千鶴の存在が俺の中で占め始めていたような気もする。
だからこそ、蝦夷に渡る時千鶴を仙台に置いてきたのだ。
だからこそ、気付いたのだ、千鶴の存在の大切さに、大きさに、想いに。
「千鶴、これからも傍にいろ…。」
迷わない。
「…はい。」
涙残るままに綻んだ笑顔はとても綺麗だった。
思わず目を細める。
守り抜く、と決めた。
失わせねえ、と決めた。
俺の隣にいることが幸せだという千鶴の為に、千鶴の隣にいることが幸せだと思う俺自身の為に。
一つ、また一つ、と失った大切なものの痛みの分、千鶴との暮らしは何にも代え難い幸せだと知る。
この手に塗れた血の色が、千鶴と見る世界をより眩く見せる。
死に向かっていたあの頃の俺が、愛しい日々を長く生きたいと思わせる。
自分の腕の中に閉じ込めた温もりが、ただただ大切だと愛しいのだと。
――俺が何より守りてえと思うのはおまえだ――
決戦の前の日千鶴に告げた言葉。
その言葉と共にもう一度伝えよう。
「千鶴、俺が何より守りてえと思うのはおまえだよ。もう離さねえ。」
「はい……!私は幸せです。土方さんにこんなにも愛されてるんですから。土方さんも――」
「幸せだ。だからもっと、幸せになるんだよ。」
夜の空には、満月なのか煌々と照らすまんまるの月が輝いている。
「惚れた女にこれだけ愛されてるんだ、このどこが幸せじゃないってんだ。」
満たされた気持ちだった。
あれほど掻き乱れていた心は、嘘のように凪いでいる。
「土方さん、そろそろお布団に戻ってください。」
少し体を起こした千鶴が、有無言わさぬ意志で言い寄った。
「まだ治ってないんですから。
お体を冷やされては治りが遅くなります。早く治していただかないと…。」
夜風はひんやりとしている。
夕餉の準備が何も出来てないんですよ、という千鶴。
慌てて言葉を紡いでいく。
「土方さん?」
心許ない声が、答えない俺に不安を織り交ぜて呼んだ。
「わかったよ。」
千鶴を腕を緩めることで解放する。
けれど、すぐには動かなかった。
どうした、と声を掛けるより早く千鶴は離れた。
立ち上がる俺に手を貸して、寄り添って歩き出す。
いたわる手つきで俺が横になるのに添えた。
「土方さん。」
「ん?」
「早くよくなってくださいね?」
寂しそうな表情と言葉に、すぐには動かなかった千鶴の行動の意味を悟った。
腕を伸ばし、千鶴の頭に置く。
「わかってる。」
すると、今ではすっかり見慣れた笑顔になり
「じゃあ急いで夕餉の支度を済ませてしまいますね。」
「ああ。」
今あるものを大切に守っていこう。
剣を握っていた手は、剣を握らずとも大切なものを守る術を知っているようだった。
こぼれおちたあとに残ったものは、もしかすると守り続けてきたものなのかもしれない。
結果として残ったのではなく、残すべくして残ったのだと、今ではそんなような気もする。
大切なものは時として形を変え、姿を変え、失う運命にあるものもあって。
一つ、また一つとして失っていった大切なものは、
一番守りてえと思っていた一番大切なものを守るためにこぼれおちていったのだろうか。
――土方さんが泣かないからです――
手にはべっとり血が染みついちまっている。
それでも、生きたいと思えるほどに大切なものを守るに足る力を失ったわけではないのだ。
――お傍にいられるだけでも幸せです――
そう笑った存在が、生きる力へと変えていく。
夕陽に宿るものは、温かさもあるのだろうか。
――おまえにそばにいてほしい――
一人の女を愛しているという想いだけが、支配する月光の夜。
彼女を幸せにするということが、自身の幸せであり、
失いたくねえと願う大切なものを守ることなのだろう。
ぐっと拳で握る。
二度とこの手からこぼさねえ。
手放さねえ。
ありあまる幸せを、ただ一人愛した女と生きる人生悪くねえ。
消えねえもんに捕われても、また失いかねない。
不思議と落ち着いた心を、かつての俺をどう思うだろうか。
一つの答えが出た今は、もう迷うこともあるまい。
例え、夕陽のような朱に惑わされることあっても、
刻まれた痛みが思い出したように疼くことがあっても、もう迷うことはない。
――生きたい理由が――
――生きる理由に――
そんなただ一つの存在がこの胸にあるから――
自分の代わり泣く女がいる。
自分の生き様を是として、自分のことのように誇りに思ってくれる女がいる。
守らなけりゃならねえもの。守り通してえもの。生涯大切にしていきてえもの。千鶴という存在。
惚れた女の為だけに、ただ。