蝦夷の地を踏みしめたのは雪深い頃だった二人には、初めての夏だった。
冬が長く厳しい蝦夷は、夏は短くとても過ごしやすい。
二人が生まれ育った江戸の夏も暑かったが、
それ以上に暑かった京の夏は、蒸し蒸しと茹だる様なという言葉ふがぴったりな夏だった。
涼を求めようにもどこに行っても暑く、
逃げ場がないどころかただいるだけんで汗を掻くようなそんな暑さに、誰もが辟易としていた。
それに引き換え、さらりとした風が吹き、
陽射しも照り付けるというよりも、眩しさだけが増したようなそんな陽射し。
「随分と過ごしやすいんだな。」
「本当、京の暑さが嘘みたいですね。」
風が風鈴揺らして、土方と千鶴の言葉に相槌を打った。
二人は縁側にいた。
土方は胡坐をかき、書物を手にしていた。
千鶴はその横に座り、繕い物を手にしていた。
並んで座る二人の距離は触れるくらい近い。
かつては、土方を追いかけるように、そっと後ろに下がって傍に控えていた千鶴は、
今はその必要になく隣に並ぶのが当たり前となっていた。
といっても、背中を追いかけてる時間の方が長い千鶴自身は、未だ慣れていないなかったりする。
落ち着く土方の隣は、慣れないながらも大好きな場所になっている。
「おい千鶴、隣に旦那がいるってえのにほっときやがって。」
当に書物から目を離していた土方の目は、
ここ最近より精を出して針仕事を行っている千鶴に向けられている。
土方は、夫婦ととして形ばかりの祝言を挙げて以降、随分と千鶴に甘くなっていた。
ただ一人の女を愛する本来の土方の姿なのだろうが、
愛しさ故か千鶴中心と言ってもいいかもしれない。
隠すことなく思いの全てを千鶴に表している。
「ほ、ほっといてなんか…っ」
聞きようによっては、針仕事に嫉妬しているような言葉に、
千鶴は手を止めてあたふたと土方を見た。
「してるじゃねえか。最近時間さえあれば針仕事に没頭しやがって。」
「あのこれは間に合わなかった困るので…!」
と、千鶴があっという顔をして、自分の口を塞いだ。
言うつもりのなかったことを言ってしまった、という感じだ。
あまり隠し事の出来ない女である。
人の機微に何かと聡い土方の前では
よほどうまく隠さなければすぐに看破されてしまうのだが。
出来れば見逃してほしいと、
何も聞かないでほしいと願う千鶴だったが、土方という男がそんなことをする筈がない。
「間に合わねえとは何がだ?」
「……。」
千鶴は答えようとはしない。
このところ千鶴が手にしているものは見るからに男物。
自分の失態に固まってしまった千鶴の手から、それを取り上げる。
手触りに覚えがあった。
この時期に着るものには違いないが、
普段土方が着ている夏物の着物とは感触が微妙に違う生地。
「浴衣か?」
千鶴が土方の言葉に肩を揺らした。
言葉にこそしなかったが、その沈黙が肯定だと伝えている。
千鶴の反応と、間に合わないという言葉に、思い当たることがあった。
千鶴の考えそうなことだと、土方は口角を上げた。
いつだったか、買い物にと人里に降りた時、祭りがあると聞かされた。
小さな集落である。
規模こそ小さいが、唯一の神社で毎年この時期になると夏祭りを開くのだそうだ。
確か、今年の祭りがもうすぐだった筈である。
土方は千鶴の頤に指を添えて、自分の方へと向かせる。
「千鶴、俺相手に隠し事が出来るとても思ってるのか?」
もう懐かしいとも言える鬼副長の名残か、有無を言わさぬ視線が千鶴の目に映る。
微かに顰められた眉間の皺。
千鶴は萎縮こそすることはないが、体に染み付いているのか咄嗟に姿勢を正す。
観念したのか千鶴は白状することにした。
「あの…。な…夏祭り、土方さんと浴衣で行けたらいいなと思いまして……
その、土方さんの浴衣を……。」
最後まで言うことは出来ずに、尻すぼみに消えていった。
頤を捕まえられてる為、顔を背けることは出来ないが、
瞳を伏せることで土方から逃れようとする。
「……すいません…。」
しゅんと大人しくなる。
土方に黙って事を進めていたことを怒られるとでも思ったのだろう。
謝罪の言葉をその口に乗せた。
「ありがとうな。」
千鶴の思いとは反対に、土方の優しい声が返ってきた。
頤の手は外れ、代わりに頭にぽん…と置かれる。
驚いたように見開かれた瞳で、千鶴は土方を見た。
千鶴の表情に土方は思わず笑ってしまった。
当然、千鶴は戸惑いの表情へと変える。
「私何か笑われるようなことしました?」
「いや…可愛いなと思ってよ。」
「えええ?!」
今度は赤くなる千鶴に土方はついその体を自分の方へと抱き寄せた。
「怒られると思ったか?」
「だって、土方さんに何も言わずにしていたので…。」
「千鶴が俺に何かをしてくれてんだ、嬉しいに決まってんだろ。こんなにも心を込めてな。
まぁあまり相手にされねえのも寂しいもんがあるが。」
千鶴の顔にかかった髪をそっと払って、嬉しさと気恥ずかしさを混ぜっ返した表情をじっと見つめる。
「それに可愛い千鶴の希望じゃねえか。行ったことなかたもんな。
京にいた頃送り火を見に行ったことがあったが、あまり楽しむっていう感じじゃなかったし。」
当時を思い出してか土方は最後小さく苦笑した。
それこそ送り火を見る少し前までは、通常の巡察同様眉吊り上げていたのだから。
土方と揃って浴衣を来て夏祭りに行きたい。
思えば、まだ二人は祭りらしい祭りに一緒に出掛けたことがない。
京にいた頃、土方の言うように送り火を一緒に見たことがあった。
土方が自分の命令で命を散らした隊士に対する心のうちを見せた、
千鶴にとっては大切な思い出として、心の中にしまわれている。
だからか、今度の夏祭りには土方にも祭りを楽しんでほしいと千鶴は思い、
夫婦として傍に隣にいられることを許された今、
二人で浴衣を着ていけたらいいだろうと思って
土方に似合うだろう反物を買い求め、丁寧に丁寧に一針一針進めていた。
二人暮らすようになってからもあまり願いを口にしない千鶴が、
さりげなく見せた願いだと土方には思えたのだ。
「なら今度の祭りは楽しみにしているぜ。」
「はい。」
柔らかく微笑んで言う土方に千鶴はふわりと笑った。
が、そういえばと土方は何かに気が付いて千鶴に聞く。
「おまえ、俺のが間に合う間に合わねえ言ってるが、自分の分ってもう出来てんのか?」
「……いえ、私は先日タエさんからカヨさんの浴衣頂きましたし…。」
土方の浴衣が仕上がれば十分ですから、と笑った千鶴に土方はため息をつく。
自分のことは後回しに土方を優先する千鶴のことだから、そういう答えだろうとは土方も思っていた。
土方も似たようなものなので、強く言うことは出来ないが、
それでも自分の惚れた女を着飾らせてやりたいと思うし、
何しろ自分の妻が他所から貰ったものを着るというのはどうも納得がいかない。
どうせなら自分が選らんだ浴衣を着せてやりたいもの。
「千鶴、出掛けるぞ。」
「今からですか?!」
「当たり前だ。千鶴の浴衣を見に行くぞ。」
「い、いえ!そんな申し訳ないです。」
「何言ってんだ。」
大きく首を振って土方の提案を千鶴は辞退した。
「千鶴、おまえは俺に似合うものを選んで、俺に着てほしかったんじゃねえのか?」
二人の横に大事そうに置かれた、先程まで千鶴が針を進めていた浴衣を指す。
お店に並ぶ浴衣地を見て、どれが似合うだろうか、
この色はどうだろうかと手にとり想像をしては、選んだその浴衣。
きっと土方に似合うだろう、それを着たところを見てみたいと願いながら毎日毎日作っていた。
「そうですけど…。」
「同じだよ。俺もおまえに浴衣を贈りてえんだよ。
千鶴が俺に似合うものを選んでくれたように、俺も千鶴に似合う浴衣を選びてえんだ。
おまえには綺麗な格好してほしい。
惚れた女を着飾らしてえと思うのが男ってもんだろ?せっかくの夏祭りじゃねえか。」
土方は、柔らかな表情をする。
曇りない菫色は、ただ、千鶴への愛情を映していた。
自分に向けられる土方の一心の愛情に、淡い色に頬を染めて千鶴は笑った。
とても嬉しそうである。
「ありがとうございます…!」
「よし、そうと決まれば日が高いうちに行くぞ。」
「はい。」
土方はどんな浴衣を選んでくれるのだろうか。
互いが選んだ浴衣を着て歩く。
そのことが凄く幸せなことのように思えて、待ち遠しく思えた。
千鶴の笑顔はまさに花のような笑顔だった。
夏祭り[後編]